――徒然なるままに書きしものこそ、物の心や淡にあらむ…
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永久【とわ】を願う言葉ほど、危うく不確かで信じるに値しない“言葉”など無い。
世に〈永久〉は存在しない。総ては流浪し、変遷していくもの。
その言葉を作った「人間」が流れの動力源。
人間は、永久を持ち得ない存在。
限りのある生命。その思考は変遷の渦に相違ない。常に何かに書き換えられ、移り行く。
故に、〈永久〉というその響きは、虚しく木霊するだけ。
それでも信じたいと思ってしまうのは、手にすることの叶わないという事実からの“憧れ”なのか。或いは“意地”なのか。はたまた…――。
世に〈永久〉は存在しない。総ては流浪し、変遷していくもの。
その言葉を作った「人間」が流れの動力源。
人間は、永久を持ち得ない存在。
限りのある生命。その思考は変遷の渦に相違ない。常に何かに書き換えられ、移り行く。
故に、〈永久〉というその響きは、虚しく木霊するだけ。
それでも信じたいと思ってしまうのは、手にすることの叶わないという事実からの“憧れ”なのか。或いは“意地”なのか。はたまた…――。
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「逢いたい人」とか「いとおしい人」とかが存在するだけでも、とても倖せなことだと思うの。
そして、秘めたまま然う想ったり感じたりしている時が、迄度一番倖せなのよ。
でも不思議ね。
然う考えていても、存在する距離への“もどかしさ”と“苦しさ”に堪えられなくなって、その内「どうか此の手を取ってほしい」と望んでしまうのは、人間【じんかん】に生きる人の性【さが】なのかしら。
それもまた、人の愚かしくも可愛らしい部分よね。
そして、秘めたまま然う想ったり感じたりしている時が、迄度一番倖せなのよ。
でも不思議ね。
然う考えていても、存在する距離への“もどかしさ”と“苦しさ”に堪えられなくなって、その内「どうか此の手を取ってほしい」と望んでしまうのは、人間【じんかん】に生きる人の性【さが】なのかしら。
それもまた、人の愚かしくも可愛らしい部分よね。
「愛する」・「愛さない」はヒトの自由です。その対象もあらゆるものがあり、何であろうと他者が介入する余地はありません。
また、「愛されたい」・「愛されたくない」というのも自由です。そして、その理由を詮索するのは野暮というものでしょう。ただし、その理由の所有者自身が、他者と分かち合いたいと望む場合は除きます。なお、それを承諾するか否かの選択権を相手が所有していることは言うまでもないことです。
しかしながら、この世には「愛されるモノ」・「愛されないモノ」が存在します。同様に、「愛するモノ」・「愛さないモノ」も然うです。
この拮抗し合うモノの相互作用或いは相乗作用により、喜劇も悲劇も生じるわけです。
また、「愛されたい」・「愛されたくない」というのも自由です。そして、その理由を詮索するのは野暮というものでしょう。ただし、その理由の所有者自身が、他者と分かち合いたいと望む場合は除きます。なお、それを承諾するか否かの選択権を相手が所有していることは言うまでもないことです。
しかしながら、この世には「愛されるモノ」・「愛されないモノ」が存在します。同様に、「愛するモノ」・「愛さないモノ」も然うです。
この拮抗し合うモノの相互作用或いは相乗作用により、喜劇も悲劇も生じるわけです。
こんな生き方しかできない。
こんな愛し方しかできない。
こんな伝え方しかできない。
こんな守り方しかできない。
こんな…――。
それでも、今日の今を生きていく。
僕は僕として、時にボクとして、拙い道のりを歩んでいく。それは他の誰でもない自分【ぼく】にしか往くことのできない道だから――そう、共には往けない道だから。
この先まで、往く。生きていく。
昨日ではなく、明日をいとおしいと思える“明日”に会いたくて。
こんな愛し方しかできない。
こんな伝え方しかできない。
こんな守り方しかできない。
こんな…――。
それでも、今日の今を生きていく。
僕は僕として、時にボクとして、拙い道のりを歩んでいく。それは他の誰でもない自分【ぼく】にしか往くことのできない道だから――そう、共には往けない道だから。
この先まで、往く。生きていく。
昨日ではなく、明日をいとおしいと思える“明日”に会いたくて。
ある事象に対する答えが、アナタとワタシで異なりを見せるのは、その処理過程、すなわち思考プロセスの異なりによることなのは明白でしょう。それは、アナタとワタシとにおける、生きてきた時間、環境、過程といったそれぞれの因子の異なりでもあります。
しかし、ワタシはアナタの思考や行動パターンを予測はしても、トレースすることはしません。そうすることで、アナタをワタシのものにできますか?
“ワタシのものにする”ということは、ワタシの所有物とする、という意味ではありません。もっと概念的なことですが、現在それを記号化、即ち言語化するに相応しい言葉は存在しません。そう、近い言葉を言えば、“瞼裏に灼き付ける”という言葉でしょう。しかし、これでは補いきれない要素が此れにはあります。
話を戻しましょう。
逆を言えば、アナタはワタシの思考をトレースすることでワタシをアナタのものにできますか?
答えは「NO」です。
ソレは飽くまでアナタの中で構築されアナタがワタシと名付けた空想の思念体に過ぎません。
ワタシはまた、ワタシをアウトプットすることを望みません。
そうすることのメリットは何ですか?
思考の共有? 共感? 仲間意識の構築? 他者から理解?
どれも微々たるものに過ぎません。
すべては、やがては失われていくものなのです。
得たところで残りはしません。
残るのは、記憶という脳の一部を占有する不確かなデータのみです。
表出されたデータに価値はありません。
価値があると判断するのは、アナタがワタシとは違う別の思念体であり、ワタシを知らないからです。しかしながら、そのデータを拾ったところで、アナタは今のワタシを知るわけではないのです。なぜなら、表出されたデータは、飽くまでワタシの中で不要なものであり、過去の産物なのです。
よって、ワタシの思考を覗かない限り、アナタがワタシを理解することなど甚だありえない、そう、いわば“奇跡”なのです。
しかし、ワタシはアナタの思考や行動パターンを予測はしても、トレースすることはしません。そうすることで、アナタをワタシのものにできますか?
“ワタシのものにする”ということは、ワタシの所有物とする、という意味ではありません。もっと概念的なことですが、現在それを記号化、即ち言語化するに相応しい言葉は存在しません。そう、近い言葉を言えば、“瞼裏に灼き付ける”という言葉でしょう。しかし、これでは補いきれない要素が此れにはあります。
話を戻しましょう。
逆を言えば、アナタはワタシの思考をトレースすることでワタシをアナタのものにできますか?
答えは「NO」です。
ソレは飽くまでアナタの中で構築されアナタがワタシと名付けた空想の思念体に過ぎません。
ワタシはまた、ワタシをアウトプットすることを望みません。
そうすることのメリットは何ですか?
思考の共有? 共感? 仲間意識の構築? 他者から理解?
どれも微々たるものに過ぎません。
すべては、やがては失われていくものなのです。
得たところで残りはしません。
残るのは、記憶という脳の一部を占有する不確かなデータのみです。
表出されたデータに価値はありません。
価値があると判断するのは、アナタがワタシとは違う別の思念体であり、ワタシを知らないからです。しかしながら、そのデータを拾ったところで、アナタは今のワタシを知るわけではないのです。なぜなら、表出されたデータは、飽くまでワタシの中で不要なものであり、過去の産物なのです。
よって、ワタシの思考を覗かない限り、アナタがワタシを理解することなど甚だありえない、そう、いわば“奇跡”なのです。